あらゆる問題を解決する秘訣

佐々木 満男

イエスは答えられた 。

「・・・あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。

わたしはすでに世に勝っている」

(ヨハネの福音書16章33節)

 

世に勝つ者はだれか。イエスを神の御子と信じる者ではないか。

(ヨハネの第一の手紙5章5節)

1.  はじめに

「問題のない人は、お墓の中にいる人である」と言った人がいます。私たちには生まれてから死ぬまで、一日として問題のない日はありません。進学・就職などの進路の問題、恋愛、結婚生活、子供の教育などの家庭の問題、仕事や職場での人間関係の問題、病気・老後そして死の問題、その他に政治・経済・社会問題など、数えあげればきりがありません。

 

私は長年にわたり、弁護士として、毎日のように依頼者から持ち込まれる法律問題の解決に携わってきました。ここで、永遠のベストセラー、聖書(ザ・バイブル)から、またさまざまな法律問題に取り組んでこれを現実に解決することを職業とする弁護士としての体験から、「あらゆる問題を解決する秘訣」ということについてお話ししてみたいと思います。

 

私の所属する事務所は、国際間の法律問題を専門とする国際的法律事務所です。その業務は、国際間における技術・販売提携、合弁会社、外国会社の子会社・支店設立、ダンピング問題、輸出入取引に関するクレーム処理、外国会社による株式上場、社債発行、海外資源開発、企業の買収・売却(M&A)、航空機・船舶の売買・リース、金融・税務問題、会社のリストラ・倒産処理、労使問題、特許・商標・ノーハウ侵害問題、外国人のビザ・入国許可の問題、麻薬密輸の刑事事件など、実に多岐にわたります。国際弁護士は、依頼者から持ち込まれるこれら多方面の問題に対処することが、要求されます。

 

これらの分野は、まったく経験したことのない分野もあり、未知の新しい法律問題が次々と発生してきます。特に、私が個人的に専門としてきた人工衛星やスペース・シャトルの打ち上げ、宇宙基地建設などの宇宙開発関係の法律の分野はその傾向が著しく、仕事は非常に興味深く面白い反面、ひとつ一つの問題解決のためには、大変な苦労を要します。

 

最近の日本の国際化傾向に伴い、仕事はますます増大し、その内容は複雑となり、一件数十億、数百億円という規模の事件も増えています。

 

コンピューターやインターネットなどの情報の処理・伝達能力の飛躍的発展により、各事件処理のスピードも急速に早まってきています。国際間の時差を逆に利用してファックスや電子メールで通信していると、昨日の夕方または夜に外国に送信した問い合わせが、今日の早朝には回答されているというように、国際事件の方が国内事件よりもかえって早く進むことが多いくらいです。

 

ですから国際弁護士にとっては毎日が緊張の連続です。少しでも法的判断を間違えると、大変な事件に発展してしまう危険性が常にあるからです。

 

法律問題以外にも、人種、国籍、信条、宗教、商習慣、文化、言語の相異に常に直面しなければなりません。このストレスも大変なものです。同じ英語でも、インド人やフランス人、スウェーデン人などの英語はわかりにくく、国際電話で話した後には、念のため確認のファックスを送ってもらうこともあります。

 

さまざまな紛争事件を担当しますと、依頼者の権利を守るためには、ヤクザや暴力団とも対抗しなければならないときもあります。かつて関西から数人の暴力団員が刀のような物を持って事務所に乗り込んできて、大声で騒ぎ出したため、警察署のパトカーが白昼、私どもの事務所のあるビルに横づけされた、という事件がありました。このような場面では命がけです。

 

社会の正義と公正を実現するためには、行政官庁や大会社と正面から対決していかなければならないこともあります。一個人にしかすぎない弁護士が大組織と対決するわけですから、相当な勇気と緊張を必要とします。

2.  弁護士のバイブル

弁護士のバイブルは六法全書であるといわれています。このぶ厚い書物には、数多くの法律が小さい活字でびっしり印刷されています。私は弁護士になったら、六法全書が一冊あればやっていける、と思っていました。六法全書さえマスターすれば、すべての問題を解決できる、と思っていたのです。

 

ところが、現実はそう甘くはありません。実際には、六法全書のほかに法律や規則や条例がたくさんあります。明文化されていない行政官庁の行政指導も数え切れないほどあります。法律や規則ではっきりしない点が争いになって裁判へ持ち込まれるわけですが、その判例集が山ほどあるのです。法令や判例はめまぐるしく変わります。法律解説書や法律雑誌も多数出版されています。弁護士は国家から資格を与えられている専門家として、法律問題について間違ったことは言えません。良心的に仕事をしようとすればするほど、その責任からくるストレスは大きく重くなってきます。

 

弁護士になりたての頃は、法律解説書を買いあさり、また各種法律雑誌や判例集にもくまなく目をとおしていました。国際弁護士は法律を知っているだけでは不十分であると思い、日刊新聞だけでも6種類、経済・政治週刊誌5種類、その他必要と思われるもの、興味のあるものは何でも読んでいました。毎日テレビを見て、ラジオも聞いていました。

 

ところがその結果、あまりにも多い情報に圧倒されてしまったのです。常に頭の中に雑多な情報がつめ込まれている圧迫感がありました。自分で考え、自分で判断していく力を失い、他人の知識や情報にのみ頼るようになってしまいました。いくら学んでも、どんなに情報を集めても、もうこれで十分だと安心できなくなってしまったのです。そんな時に、私の後輩で非常に優秀な弁護士が、ノイローゼになって1年以上も行方不明になっている、という噂を耳にしました。自分ももしかしたらそうなるのではないかと思って、ゾッとしました。

 

自由にあこがれ気楽に生きようと思って、私は弁護士の道を選んだのです。国際的法律事務所に勤務して、数多くの国際企業の顧問弁護士としてさまざまな仕事をし、世界各地を飛びまわっていました。表面的には自由かつ気楽に仕事をしてきました。しかし内実はそうではなかったのです。弁護士に持ち込まれる問題は、普通では解決できないものばかりです。受任事件は困難な重荷としてのしかかってきました。仕事中はもちろん、仕事が終っても、最終的に問題が解決されるまで、頭から離れないのです。

 

いつのまにか私は数多くの問題にがんじがらめになってしまいました。がんばればがんばるほど、依頼される問題はもっと増え、仕事の責任はますます重くなっていきます。問題の重圧は、ゴルフや酒や旅行による一時的気晴しで解消するようなものではなく、そのうち体力と知力の限界を感じ、くたくたに疲れ果ててしまったのです。

3.  すべての人のバイブルとの出会い

6年ほど弁護士として働いた後、もう一度人生を考え直してみようと思い、オーストラリアのメルボルンにある大学に留学しました。メルボルンでは、すべてが東京とちがってゆったりとしていました。本来なら1年で卒業できるコースを、大学で日本法を教える手伝いをしたり、現地の法律事務所で働いたりしながら、3年もかけてゆっくり勉強することができました。あまり居心地が良いので、オーストラリアに永住しようかと思ったほどです。

 

そんなある日、友人に誘われて大学のクリスチャンの集会に出席することになりました。その集会で、オーストラリアヘ新婚旅行にきたアメリカ人の青年の話を聞くことができました。彼は開ロ一番こう言いました。

 

「僕は今世界一幸せです。喜びでいっぱいです。最愛の妻とめぐり会い、結婚することができました。僕は妻を心から愛しています。しかし、僕には妻以上に愛している方がいます。妻も私を心から愛していますが、私以上に愛している方がいます。その方とはイエス・キリストです。イエスの限りない愛によって愛されている僕たちは、世界一幸せです」

 

彼は確信にあふれ、顔は喜びに輝いていました。私は大きなショックを受けました。それまで、「僕は世界一不幸だ」と思って人生を嘆いたことはあっても、「僕は世界一幸福だ」とは思ったことはなかったからです。それをきっかけとして、すべての人のザ・バイブルと言われている聖書を学ぶようになったのです。でも、徹底した唯物主義者であり、また科学万能を信じる無神論者だったその頃の私には、神の存在を前提とする聖書はまったく理解することができませんでした。クリスチャンの方々が熱心に教えてくれたにもかかわらず、根本的なことはよくわからないまま、日本に帰国してしまいました。

 

幸いなことに、帰国後、日本人のクリスチャンのグループで、聖書を学ぶ機会が与えられました。皆さんと聖書を学んでいくうちに、少しづつ、宇宙万物を造り支配しておられる全知全能の愛の神が存在することを、いろいろな体験をとおして確信するようになりました。大きくは、広大な宇宙の存在、太陽と地球の間のまったく狂いのない整然とした秩序から、小さくは、人間の身体の完璧な機能、1つの細胞また遺伝子などの極めて精緻な構造と能力に至るまで、創造者である全能の神が存在し、その神によって創造されていることを前提にしなければ到底説明できないことがあまりにもたくさんあることに気がついたのです。

 

すべての事物は、決して偶然の積み重なりで成り立っているのではなく、私たちの想像力、理解力をはるかに超える偉大な神の叡知によって創造され、支配されていることがわかってきました。「神が造り、恵みとして人間のために備えてくださっている自然界の物を、人間は組み立てたり、神の法則を利用したりしているにすぎないのだ」ということが理解できるようになりました。このような理解に立ってみると、「科学の進歩によって人間は何でもできるのだ」と信じてきた自分が、大変傲慢であったことに気づかされました。また、「人間はアメーバから突然変異をくり返して進化してきた生物である」というダーウィンの進化論がいかに愚かで間違った仮説であるかがはっきりわかりました。

 

同時に、聖書を学んでいくうちに、自分が神から離れているために、いかにみじめな状態に陥ち入っているかを、悟ることができました。私はそれまで、他の人々と比べて「自分は善人だ」と思ってきました。他の人々も「佐々木さんは善い人だ」と言ってくれていました。ところが、聖書の倫理・道徳の基準に照らして自分を反省してみたとき、私は人前では明るく、またおとなしく振舞っていましたが、人々の見ていない所ではいろいろな悪を行い、特に心の中ではあらゆる悪い思いを抱いてきたことがわかってきました。

 

それらは世間の常識では悪いことではなくても、神の目にははなはだしく悪いことなのです。外面的には比較的善人でしたが、内面的には極悪人であることがわかりました。本当の私は、無関心、貪欲、不満、高慢、劣等感などに満ちていたのです。もし永遠の滅びといわれる地獄があるとすれば、私はそこヘ落ちてしまうことは間違いないと思い、恐れおののいてしまいました。それまで何十年もかけて努力してきたにもかかわらず、真の確信も真の喜びもない日々を過ごさなければならなかった根本的な原因がどこにあったのかを、ようやく悟ることができました。

 

その原因は私の罪にありました。ここで言う「罪」とは、「的はずれ」、すなわち私の心の方向が神という最も大切な「的」からはずれている、ということです。神が存在し、神が私を造り、私を愛し、私のために真の幸福を与えようとしておられるのに、これを無視し、知ろうともせず、拒絶して自分勝手に生きてきたことです。自分の努力とこの世の手段で、なんとかして幸福をつかもうとしていたのです。その結果は、疲れと緊張でいっぱいの喜びのない生活を送っていました。

 

しかし、罪の泥沼にもがき苦しみながら永遠の滅びに至ろうとしていた私を、神の永遠の命と平安と喜びを得させるために、神ご自身がイエスという人となられてこの世に現れてくださり、私の犯した罪の刑罰を受け十字架の上で私の身代わりとなって死んでくださったことを知ったのです。私の心は、罪の恐ろしさにふるえると同時に、罪を赦してくださった神のすばらしい愛に対する感謝と喜びでいっぱいになりました。そして、イエスが死後3日目に生き返ったその復活の力を信仰によって受けることによって、心の深い次元において私は「神の子」として新しく生れることができました。

 

イエスこそが神が人のかたちをとられたお方であり、私の究極の救い主(キリスト)であることを心から悟ったことは、まったく新たに生まれたといえる体験でした。神の絶大な愛が日々降りそそがれ、私はその愛に包まれていることがわかってきました。私は決して自分で生きているのではなく、神の愛によって生かされていたのです。ついに、私自身が到達すべき最高の幸福にたどり着いたという意味において、「僕は今世界一幸せです」と胸を張って言えるようになりました。なぜなら、このような悪人の私を、神はこれまでずっと愛してきてくださり、これからもその無限の愛をもって永遠に愛しつづけてくださっているからです。

4.  あらゆる問題を解決する秘訣

宇宙万物の創造者である全知全能の神を見い出してからは、数千年にわたって書き継がれてきた、この古い書物、聖書が、科学万能・物質万能の現代社会にもそのまま通用し、私個人の日常の生活のあらゆる場面にも当てはまることを、体験するようになりました。そして、私が長年求めてきた「あらゆる問題を解決する秘訣」を、この聖書に発見することができたのです。「あらゆる問題を解決する秘訣」とはどんなことでしょうか。そんな秘訣が本当にあるのでしょうか。

 

私が発見することのできた「あらゆる問題を解決する秘訣」とは、「ひとつ一つの問題の解決を神に求める」ということです。私たちは、問題の解決を、人や金や組織や政冶や法律や社会制度という方法(HOW)に求めます。しかしそうではなく、問題の解決を、まず第一に全能の神ご自身(WHO)に求めていくのです。聖書によれば、神は「天の父」として宇宙・万物を創造し支配しておられる全知・全能のお方です。もし聖書に書かれていることが真実であるならば、そのような偉大な神に解決できないような問題は何一つないはずです。イエスはこう言っています。

 

よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものは何でも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたは、わたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば与えられるであろう。そしてあなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。

(ヨハネの福音書16章23,24節)

 

イエスは、私たちが「天の父」、すなわち全知全能の神に求めるものは何でも与えられるであろう、と宣言しています。もしこれが本当なら、私のように多くの問題やもめごとに取り組んでいる者にとっては、実にすばらしい朗報です。そこで、解決困難な問題にぶつかると、その都度神に解決を求めてみることにしました。

 

「神よ、どうかあなたの全能の力によってこの問題を解決してください」

 

と神に祈り求めるわけです。非常にありがたいことに、解決不可能と思われた問題が次々に解決されていくことを、体験するようになりました。この点に関して、忘れることのできない体験がありますのでお話しします。

 

ある依頼者が外国で事業をしていたのですが、知らない間に詐欺罪で訴えられ、本人欠席のまま懲役3年の有罪判決が確定してしまいました。本人は無罪を確信していました。私はこの事件の解決を依頼されて、有罪判決を覆がえすために、依頼者と一緒にその国へ行くことになりました。私はその国のことばは話せませんし、その国の法律も全く知りません。そこで、現地の弁護士の助けを借りるために、依頼者について行ったわけです。

 

ところが、その国の空港に到着し、パスポートの検査を済ますやいなや、警官がやってきて、私の目の前で依頼者を逮捕して連れて行ってしまいました。パスポート検査の際に照合される犯罪者名薄に彼の名前が載っていたのです。依頼者は「助けてくれ!」と叫んでいましたが、私にはどうすることもできませんでした。ヘたをすれば彼はそのまま監獄に入れられて、3年間出てこれないかも知れません。私自身も共犯者と疑われて逮捕される恐れもありました。そのようなどうしようもなくなった時、先ほどのヨハネの福音書のイエスのことばを想い出し、心に落ち着きを取り戻すことができました。そして空港で唯一人残された私は、神に心から祈ったのです。

 

「天の父よ、あなたの力によって依頼者を救い出してください。彼は無実を証明するためにこの国へ来たのに警察に逮捕されてしまいました。どうか警察の手から彼を救い出して無罪を証明させてください」

 

しばらく祈りつづけていたところ、突然依頼者が釈放されて空港警察から出てきました。いったい何が起きたのかと聞いてみると、急に「もう行ってよい」と言われただけで、彼にもよくわからないようでした。しかし、祈りが答えられたことを知った私は、心から神に感謝しました。

 

それから現地の弁護士に弁護を頼んで、一緒に法廷に出ることになりました。日本ではすでに確定した有罪判決を再審で覆すことは、非常に難しいことです。その国は日本以上に官僚的な国ですから、それはもっと困難なことです。日本では「疑わしきは罰せず」と言いまして、有罪のきめ手となる明確な証拠がなければ無罪となるのですが、その国では逆に「疑わしきは罰する」と言いまして、被疑者が無罪を証明しなければ有罪にされてしまうのです。さらに悪いことに、検事側は私の依頼者に非常に不利な証拠や証人を十分に準備していました。私は弁護士としてはなすべきことがなかったので、裁判を傍聴している間中、法廷で祈りました。

 

「主よ、どうかこの人の無罪を証明してください。そして、この誤った有罪判決を覆がえして彼を釈放してください」

 

帰国後もクリスチャンの仲間たちと共にひきつづいて祈りました。数カ月後、判決が下りました。無罪判決でした。依頼者の喜びようといったら天にまで跳び上がるようでした。彼にとっては有罪判決の存在が大変な苦悩であったわけです。私にとってもこの事件の解決は大きな喜びでした。それよりもなお大きな喜びは、神は生きておられ、私たちの祈りに対してこのように現実的に答えてくださるお方である、ということを体験できたことでした。この出来事をとおして、私の神に対する信頼はますます深まって行きました。

5.  問題解決のボタン

それからというものは、裁判で法廷に立つときには、かならず、聖書を持って行くようになりました。そして「天の父よ、どうかすべての関係者の益になるように、この事件を公正に解決してください」と祈りつつ弁論をすすめます。裁判官も弁護士も検事も人間ですから、常に間違いを犯す危険があります。ですから、全知・全能の神に正しい解決がなされるよう祈り求めるのです。このようにして、これまでいろいろな事件が解決されていくことを体験してきました。「問題が正しく解決されるように神に祈り求める」という方法は、訴訟事件だけに限らず、私が担当しているすべての仕事について用いています。

 

仕事の関係で、種ケ島の人工衛星ロケット打上げ基地を、何度か見学させてもらいました。ロケット発射の管制室はロケット発射台の数百メートル後方にある頑丈な地下壕の中にあります。ある時、管制室に入って、ロケット発射ボタンに触れさせてもらいました。ロケットに関する技術についてはまったくの素人の私ですが、このボタンを押すだけでロケットを打ち上げることができるのだと思うと、心が躍動しました。

 

巨大な人工衛星打上げロケットは、発射ボタンを押すことによって打上げることができます。それと全く同じように、あらゆる問題を解決するためのボタンがあります。そのボタンとは、「祈り」です。全知・全能の神は、私たちの「祈り」に答えて、あらゆる問題を解決してくださるお方です。この場合、「ボタンを押す」とは、「問題の解決を神に祈り求める」ことです。人間の親でさえ、子どもが求めるものは喜んで与えるものですが、神は私たちの「天の父」なのですから、子どもである私たちが祈り求めるものは、本当に必要なものならば、惜し気もなく何でも与えてくださるのです。

 

人工衛星の打上げ発射ボタンの場合には、それを押すことができる権限を持っているのは、宇宙開発事業団の理事長だけです。「祈り」のボタンは、老若男女を問わず誰でも、これを押すことができます。神に単純に信頼して、祈り求めればよいのです。自分の力、他人の力、金の力、組織の力などによって問題の解決を図ろうとして、私たちは窮地に陥ち入ってしまうことがよくあります。自分や他人や金や組織の力には限界があるからです。けれども、神に解決を祈り求めることによって、その窮地から脱出することができます。全宇宙・万物の創造者、支配者であられる全能の神の力と知恵には、限界はないからです。

 

神に祈り求めることによって、ある問題は驚くほど速かに解決されます。問題によっては、解決されるまで長い時間がかかる場合もあります。解決に時間がかかる方が私たちの本当の益になるからです。その場合には、解決されるまで失望せずに神を信頼して祈りつづけていけばよいのです。問題が困難であればあるほど、熱心な忍耐強い祈りが必要とされます。問題によっては、願ったとおりには解決されない場合もあります。願ったことが神の目から見ると、適当でないことだからです。これも祈っているうちに神からそれを示され、願いそのものが修正されて、もっとよい解決がなされていきます。これが、神があらゆる問題を解決してくださる聖書の公式です。

6.  知恵を願い求める

複雑な現代の社会で賢明に生活し、仕事をしていくためには、大変な知恵が必要です。私は生きていくために、自分に知恵が不足していることをいつも痛感しています。しかし、知恵も神に求めることができることを知りました。新約聖書のヤコブの手紙1章5節には、次のように書かれています。

 

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人はとがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に願い求めるがよい。そうすれば与えられるであろう。ただ、疑わないで信仰を持って願い求めなさい。

 

私は知恵に不足していましたので、「この問題を解決するために、どうか適切な知恵を与えてください」と神に祈り求めるようになりました。日々起きる問題はますます難しくなってきているように思います。しかし、全知全能の神はいつでも私の信頼に答えてくださり、私が小さな心で期待したことをはるかに越えて知恵を授けてきてくださいました。

 

神の導きを信頼することによって、新聞や雑誌や法律書を以前のように読みあさることがなくなりました。長年、テレビはわが家にはありませんでした。最近は子どもたちにニュース番組を見せるためにテレビを買いましたが、私はまったく見ていません。ラジオもほとんど聞きません。そのかわり、できるかぎり多くの時間、聖書を読んで神に祈るようになりました。そのために困ったことや失敗したことは、一度もありません。かえって、直面している問題の調査・検討に精神と労力を集中することができるようになりました。問題解決に必要な知識や情報は、その都度、十分に与えられるのです。

 

新聞、雑誌、法律書の濫読やテレビ・ラジオの習慣的視聴を止めることによって、雑多な情報や知識にふり回されずに、物事の本質を見抜くことができるようになってきたと思います。例えば、あらゆる法律や道徳の基本理念は、聖書に述べられている「モーセの十戒」に集約されていることを発見しました。「モーセの十戒」は、「心をつくして神を愛すること」と、「自分を愛するように隣人を愛すること」に言いつくされています。「神を愛し、人を愛する」という聖書の根本的理念に立脚することによって、すべての物事を、その時と場合に応じて、単純明快に判断することができるようになってきたように思います。

 

情報や知識がますます過剰に氾濫し、仕事が複雑になり、またその規模が大きくなり、スピードが速まっている中にあって、神の導きと助けを信頼することによって、私自身の生活はますます単純になり、自由かつ平安に生きられるようになってきたことは、非常に大きな幸いです。

7.  重荷をゆだねる

神を信じる以前の私は、何かを神に求めるということはありませんでした。神を知らないのですから当然のことです。本当は自分が「弱い者」であるのに、「神に助けを求めるなんて、弱い者のすることだ」と思って軽べつしていました。頼りになるのは自分だけだと信じ込んで、自分にムチ打って、なんとかして「強い者」になり、自分の力と自分の努力によって生きようとしてきました。大学を出て、運良く弁護士の資格を取得して、一時的には「強い者」になったと錯覚していたのです。

 

けれども、現実はさまざまな問題の重荷を自分一人で背負って生きなければならないため、大した希望も喜びもない、不自由で暗い人生を歩いていました。結局、数々の体験をとおして、自分がいかに「弱い者」であるかということを、いやというほど認めざるを得なくなったのです。そのような時に、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイの福音書11章28節)というイエスのことばが、心にひびいてきました。

 

このことばを信じて、イエスに私のすべての重荷をゆだねることにしたのです。そうしたら、これまで自分で苦労して背負っていた重荷から精神的に解放されてきました。生活が自由になり、非常に楽しくなってきました。歯を食いしばってがんばって自分の力で生きるストレスから解放されたのです。恐れや不安や思いわずらいが少なくなってきました。神に解決を祈り求めつつ、直面する問題に全力をもって、しかも気を楽にして取り組めるようになったからです。

 

仕事の責任はますます重くなってきますが、それはもはや重荷ではなく、楽しみに変ってきました。これまでの「失敗したら大変だ」という恐れがなくなり、「神がきっと解決してくださる」と楽天的に取り組むことができます。神は願うことを実現してくださいますから、心に感謝と喜びが満ちあふれてきます。重荷をゆだねて、力強い神の愛と喜びと平安に支えられて生きられることは、本当にすばらしいことです。

8.  問題の根本原因

さまざまな問題の解決に取り組みながら、「なぜ世の中には多くの難しい問題が生じるのだろうか」と考えてきました。そして、すべての問題の根本原因は愛の欠如にあることに気がつきました。少年の非行、夫婦の問題、労使紛争、公害、経済問題、戦争などの原因は、隣人への愛の欠如にあると思います。人々がお互いに心から愛し合うことができないから、困難な問題が発生するのです。私たちが心から愛し合うことができれば、世の中にこれほど多くの悲惨な問題があるはずがありません。しかし、お互いに心から愛しあうことほど難しいことはありません。

 

では、どうしたらお互いにもっと愛し合うことができるのでしょうか。それは、私たちの心の内には利己的な小さな愛しかないことを謙虚に認めて、「無限の愛の持主である神から愛をいただいて人々を愛すること」であると思います。私たちが互いに心から愛し合えない原因は、つきることのない愛の源泉である神から私たちが離れてしまっていることにあります。

 

ですから、問題に直面したときには、その原因が愛の欠如にあることを悟り、神の愛が私たちや人々の心を満たしてくださるように願いつつ、問題の解決を祈り求めていけばよいのです。そうすると、まず私たちの心に神の平安が与えられます。どのような混乱や激動の嵐の状況の中にあっても、私たちの心はちょうど「台風の目」に置かれているように静かに、暖かく輝く太陽をあおぐことができます。次に、事態にどのように対処したらよいかについてのインスピレーションが与えられます。それと同時に、神が状況そのものにも働きかけて、正しい方向へと導いてくださっていることを体験します。このようにして、あらゆる問題が解決されていくのです。

 

次のような事件がありました。私の友人が、不動産取引に関する軽微なミスにつけこまれて、地上げ屋から脅され、数カ月間も執拗に数千万円に及ぶ法外な賠償を要求されていました。

友人と地上げ屋との最後の交渉が始まる前に、私は自分の事務所でその問題の解決のために祈っていました。すると突然、「あなたがその交渉に立ち会って、あなたの友を助けなさい」という神からの導きを感じました。私は驚いて、「いや神さま、このような事件は私の専門外ですし、私は今自分の仕事で忙しく、とてもそんな余裕はありません」と心で拒絶反応を起こしました。ところが、「あなたは、友人がこんなに困っているのに、友のために数時間を割くことを惜しんでいるのか」と、諭されたような気がしましたのです。しばらく祈っているうちに、忙しいのは事実でしたがそれは口実で、本当はその暴力的地上げ屋と面と向って話したり、その後もかかわりができたりすることを、恐れていたことがわかりました。

 

友人に対する愛がなかったことを反省して、神がこの事件に直接介入して解決してくださるように祈りつつ、思い切って、タクシーを飛ばして交渉現場に駆けつけました。友人と共に地上げ屋と一時間位できるだけ穏やかに話し合いましたが、その場では問題は解決しませんでした。地上げ屋は、「払わないなら、裁判で結着をつけてやる」と、荒々しく捨てぜりふを残して去って行きました。けれども、その後は、それまで毎日のようにあった脅迫電話も一本もかからず、裁判にもなりませんでした。このように神は、私たちに愛と知恵と力を与え、その見えない御手をもって私たちを導いて、問題を解決してくださるお方なのです。

私が弁護士になった主な動機は、あくまでも自分が自由に気楽に生きるためでしたから、利己的なものでした。しかし、神の愛を知ってからは、弁護士の本来の使命である「人権の擁護と社会正義の実現」にも、ようやく目覚めることができました。社会問題や国際問題に対しても、自分には直接関係ないことだとして、傍観者、批判者でしかありませんでした。けれども次第に、困っている人々の援助や、東南アジア・アフリカの難民・飢餓対策その他の問題についても、私自身の問題として具体的に取り組むことができるようになりました。

 

少しづつではありますが、他の人の不安、悩み、苦しみを、自分の心の痛みとして感じるようになってきました。同時に、私たちの痛みのすべてを、神がご自身の痛みとして日々受けておられるのだ、ということが理解できるようになりました。子どもが事故にあったり、病気で苦しんでいれば、親は子ども以上に苦しみを体験します。同じように、私たちのすべての痛みが取り除かれるまで、神ご自身も痛み、共に苦しんでくださっているのです。神の愛は何と深く大きいのでしょうか。他の人が苦しみや悲しみから解放されて喜ぶとき、私もそれを自分のことのように喜べるようになりました。神ご自身が誰よりもそれを喜んでおられるのだと思います。

9.  聖書は「神のラブレター」

「あらゆる問題を解決する秘訣」は聖書に書かれています。聖書は永遠の書物であると言われています。イエスは、「天地は滅びるであろう。しかし私の言葉は決して滅びることがない」(ルカの福音書21章33節)と言っています。この世の書物は、六法全書をはじめとしてすべて、時や場合によって移り変わっていく一時の書物にしかすぎません。この世の書物は、問題を一時的に解決することしかできません。しかし、永遠の書物である聖書は、私たちにあらゆる問題を根本的に解決していく力と答を与えてくれます。

 

世界中で分冊を含めて五億冊以上の聖書が毎年出版されています。世界最大のベストセラーである聖書は、数千年もの間読み継がれてきましたが、これからも永遠に読み継がれていく神の書物です。神の人間に対する愛がきわめてリアルに書かれている聖書は「神のラブレター」とも言われています。誰でも生涯で一度は、この聖書を真剣に学んでみる価値があります。もしあなたが、まだ神など信じられないとお考えでしたら、ぜひ聖書をよく学んで、イエスの生涯と死と復活をとおして、神を熱心に探してみてください。先入観をすてて、すなおな心で聖書をお読みになったら、必ず愛の神を見い出すことができるでしょう。

 

次に、直面している問題の解決を、全知全能の愛の神に求めてみてください。きっと、これまでに想像もしなかったような解決が与えられ、すばらしい人生が開かれてきます。

10.  問題の山を動かす

聖書を学ぶことによって、神の限りない愛を体験できる毎日は、私にとってまさに奇蹟の日々です。神を心から信じる者にとって、解決されないような問題はあり得ないのです。イエスはこう言っています。

 

神を信じなさい。

よく、聞いておくがよい。

だれでもこの山に、動き出して、海の中に入れと言い、

その言ったことは必ず成ると、

心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。

そこであなたがたに言うが、何でも祈り求めることは、

既にかなえられたと信じなさい。

そうすれば、そのとおりになるであろう。

(マルコの福音書11章23,24節)

私たちが直面する問題の解決を神に祈り求めるとき、その問題は神によってすでに解決されていることを信じつづけるなら、かならず解決が与えられるのです。そのようにして、問題の山を現実に動かすことができます。問題が解決しないのは、多くの場合、私たちの神への信頼が小さいため、「心に疑わないで信じる」ことができないからです。また、問題解決のために神が与えてくださる指示に、私たちが忠実に従わないからです。

 

大切なことは、私たちがあわてふためいて問題解決のために走り回ることではなく、あくまでも落ち着いて全能の神の御前にその問題を持って行くことです。そうすると、神が問題を解決してくださることを体験できるのです。世間に対して献金その他の援助を一度も求めずに、ただ神に祈り求めることによって数千人の孤児を養い育ててきたうえ、大きな聖書学校をも経営してきた、イギリスのジョージ・ミュラーは、その生涯において記録しただけでも5万件もの祈りがすべてかなえられました。

さまざまな問題が神の力によって解決されていくことは、それを体験した者にとっては実にうれしいことです。ゆるがない確信を持って、問題に積極的に取り組んで、たくましく前進する勇気が湧いてきます。将来に対して一層明るい希望と、より高い理想が生みだされてきます。私たちの弱い力では不可能なことも、神には不可能なことはないと信じつつ、問題に取り組むことができるからです。弱い私たちが、強大な悪の力に対抗して勝利を得ることによって、この世を腐敗から守る役割を果たすとともに、失望と悲観におおわれている人々に対して明るい希望の光として輝くことができるようになります。そこに神の愛と正義が実現され、私たちもその喜びにあずかることができます。

11.  あらゆる問題は益になる

問題が次々に解決されていっても、問題がまったくなくなってしまうわけではありません。一つの問題が解決されると、より大きな、より難しい問題が待っています。私たちは生きている限り問題を背負って、その解決のために苦しみつづけなければならないのでしょうか。あらゆる問題が現実に解決されるまで幸福になれないなら、私たちは死ぬまで幸福になれないことになります。神が全知・全能のお方であるなら、すべての問題は神の御手の内にあるはずです。神は愛しておられるのに、どうして私たちが生涯にわたって問題に直面することを許しておられるのでしょうか。

 

さまざまな問題に直面し、それらと取り組んでいくことが、真の意味で私たちの益になるからです。神は愛しておられるがゆえに、共に苦しみながら私たちが問題に直面することを許しておられるのです。神はこれらの問題をとおして、私たちが「あらゆる問題は益になる」ことを体験してもらいたいのです。

 

どうして「あらゆる問題は益になる」のでしょうか。具体的問題に取り組むことをとおして、私たちが神を見い出し、神に助けを求め、そして神とますます親密に生きるようになるからです。この世の荒波のただ中でこそ、困難な問題によって私たちの固くなな自我が打ち砕かれて、そのかわりに、神の確固とした平安と、つきることのない喜びが増し加えられて生きることができるようになるからです。人間がさまざまな問題と取り組むことをとおして、神と人間の愛の結びつきは、ますます深められ、強められていくという、現実的かつダイナミックなものなのです。