佐々木満男(国際弁護士)
(“恵みの雨”連載記事「どんな問題もなんとかなる!」の2002年8月号の原稿)
弁護士 ササキ・アイザック・ミツオ
1. 神の満ちあふれる豊かさ
私たちはだれもが、豊かになりたい、裕福になりたい、と願っている。単に必要が満たされるだけでなく、あふれ出るほどに満たされ続けたいと願っている。神が人をそのように造られたのである。ということは、神ご自身がそのような性質を持っておられるということである。
神が造られた、無数の星をちりばめる広大な宇宙が今なお拡大を続けていることは、その象徴の一つである。神は、ご自身のうちに無限に広がり満ちあふれる富をもって、人々を満ちあふれさせて喜ばせ、ご自身も共に喜ぶことを願っておられる。
世界の人口の爆発的増加に伴い、食料不足が重大な問題になっている。だが、収穫されないで地に落ち朽ちていく穀物や果実は、世界中に一人も飢餓で苦しむ人がいなくなるほどの量であるといわれている。
それでは、世界になぜ飢餓があるのだろうか。豊かな国であるはずの日本にいても、なぜ多くの人々が貧しさに苦しむのであろうか。その原因は言うまでもなく、神にではなく、人にある。私たちは、その罪ゆえに、神の豊かさを十分に体験することができないのである。私たちの知恵が不足しているために、あふれ出るばかりに富を生み出すことができない。私たちの愛が小さすぎるために、富が少数の人々に集中して貧しい人たちに行き渡らない。戦後、ユダヤ人たちはイスラエルを建国したが、それまでの荒野と砂漠を開墾して緑の沃野にし、農産物の輸出国にまでしてしまった。このように、知恵があれば神の豊かさは尽きることがないのである。
この地球を造られ、そこに人を住まわせ、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記一章二十八節)と言われた神が、人口増加に伴う食料不足や資源枯渇の問題を予想しなかったはずがない。だから人がいくら増えても、本来、神の供給には限りがないのである。
人の罪ゆえに、地は呪われ、いばらやあざみを生やすものとなってしまった。しかし、人は罪を悔い改め、イエスを信じ、神の知恵を得て、神と共に働くなら、あふれ出る神の恵みを受けることができる。
2. 隠されている資源
海の中には、魚類、海草類、塩分などの資源が豊富に存在し、地中には、金、銀、銅、石油、石炭、天然ガスなど、膨大な鉱物資源が存在している。神があらかじめ、人のためにこれほどまでに豊かに恵みを備えられたとは、まことに驚嘆すべきことである。
日本を含む多くの国では、鉱物資源を採掘するには、鉱業法という法律に基づき、政府から鉱業権の設定認可を受けなければならない。同じ鉱区に同じ鉱物資源の鉱業権について複数の当事者から申請が出された場合は、先に申請した方が優先される。
私はかつて、沖縄で石灰石の鉱業権を設定したことがある。従来、石灰石採掘には鉱業権は不要だったが、沖縄が日本に復帰する際に日本の鉱業法が適用されたために、申請が必要になったのである。
石灰石はセメントの原料である。私は現地の最大手のセメント会社から依頼され、一年以上かけて申請の準備をした。そうして準備万端整え、法律施行の当日に官庁に申請に行った。午前九時受付開始だから八時ごろに行けば大丈夫だろうと思い、自分としては無理をして朝早く出向いたつもりだった。ところが行ってみると、すでに十数人の方々が窓口に並んで待っているではないか。聞いたところ、前日の晩から徹夜で並んでいる人もいた。
もし、前に並んでいる人が、私が申請する同じ鉱区での石灰石の採掘申請を提出すれば、これまでの準備がすべて無駄になってしまう。そればかりか、私に依頼したセメント会社は操業が継続できなくなり、破産に追い込まれる可能性も出てきた。自分の考えの甘さを後悔したが、後の祭である。当時はイエスを信じていなかったので運を天に任せるほかなく、不安と恐れの日々を過ごした。しかし幸いなことに、私の申請した鉱区には他の事前申請はなかった。一ヶ月後に無事、石灰石の鉱業権の設定が認可されたのである。こうして、当時の生産能力の二百年分の埋蔵量を確保することができた。
3. キリストの無尽蔵の富
いつの時代にも、農産物、海産物、鉱産物は人類の必要をはるかに上回るほどに、神によってふんだんに備えられている。しかし、私たちがこれらの恵みを自分の肉欲のままにむさぼり消費しつづけるなら、一時的な不足、枯渇もありうる。それを規制するために法律により、所有権、農業権、漁業権、鉱業権といった、さまざまな権利が定められている。
だが、いくら権利を定めても、権利をめぐる優先順位の問題や侵害の紛争が絶えないのが人間社会である。それは、土地や資源は有限であるという人間の思い込みから生じるのである。
聖書には、キリストの富は無尽蔵であると書かれている(エペソ三章八節)。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(同一章三節―新改訳)とあるように、この無尽蔵の富とは本来は霊的な祝福を意味するが、これに限られるものではない。
イエスは五つのパンと二匹の魚を五千人の人たちに分け与え、食べさせた(マルコ六章三十六~四十二節)。五つのパンと二匹の魚を見れば、私たちは数人しか食べられないと思ってしまうが、神の真理はそうではない。空腹を抱えた人々を憐れむ愛が、無尽蔵の富を持っておられる神への信仰と結び合わされるなら、現実の必要も満たされるのである。現に、必要が満たされただけでなく、五千人の人々が食べ残した分を集めたら十二のかごがいっぱいになったのである(同四十三節)。
私たちは、今あるものをお互いに愛をもって分け合い、それでも足りなければ、愛にもとづく信仰によって、キリストの無尽蔵の富をいただき、不足と枯渇の問題を解決することができるのである。