人生観を変えた最大の出会い

幸内 智明(武田薬品KK課長代理)

武田薬品工業株式会社 課長代理(広報担当)

※これは、インタ-ナショナルVIPクラブ<大阪>の1999年8月の定例会でスピ-チしたものに修正、加筆したものです。

はじめに

私は武田薬品の幸内智明と申します。幸いの内に智恵が明るいと書きます。英語で自己紹介すると苗字は"happiness inside"と言うことになります。親がつけてくれた名前の「智恵」についてはまだまだ足りないところが多く、もっと謙虚になって人生の修養を積んで智恵をいただかなくてはならないと感じています。

 

私は、昨年9まで全国各地で主に営業に携わった後、10月から本社の広報室という部署に勤務しています。仕事柄、様々な社内部署や異業種の方々と接する機会が多いのですが、VIPクラブは集うようになってからまだ半年足らずですが、他の異業種交流会とは一味違うsomethingを感じます。

 

私たちは皆多かれ少なかれ、相対的評価の中に生きていると言えるのではないでしょうか。私が勤めていますタケダでは一昨年人事制度改革が行われ、成果主義の評価システムが導入されました。より業績を反映した報酬制度への転換など、非常にメリハリの利いた今までのような甘えの許されない、ある意味で大変厳しい意識改革が要求される制度に移行しました。確かにこれからの日本というシステムには必要不可欠な制度かと思います。実際多くのマスコミにも取り上げられて来ました。しかしながら成果主義が定着してきますと、自分の「存在価値」を成果や実績と混同してしまいがちなのではないでしょうか。

 

そもそも人間の価値とは何か、私たちは言わば「Doing」の世界に生きていますが、聖書に拠れば、人間の価値は「何かをした」行動の結果にあるのではなく、「Being」即ち自分の存在自体にあると言われています。言い換えれば、何か良い結果を出したから価値があるのではなくて、ただ存在しているが故に価値があるというのが聖書の語る人間の価値だと思います。

 

VIP一味違うと感じるのは、単なる異業種交流会でいろんな方との出会いがあると言うだけでなく、自分があるがままの状態で受け入れられ、また表現できるという安心感があるからだと思います。実際、VIPを通じて出会った方々は10年来の友人のような親近感を感じますし、転勤してどこかへ行ったとしてもここで温めた友好は生涯続くものと期待しています。

 

本日のテーマを「人生観を変えた最大の出会い」とつけさせていただきました。そもそも幸福とは、「何に価値を置いて生きているか」価値あると思っているものや人との出会いによって決定すると言ってよいのではないでしょうか。

 

パラダイムシフトという言葉がありますが、私にとって社会の枠組みが変わる以上の価値観の変容を経験した出会いについてお話しさせていただきたいと思います。

自分の人生やいのちをかけられるものとは何か?

就職や進路を決定するとき、あるいは生涯の伴侶を選ぶとき、大きな選択に迫られるものだと思います。私が最初にこの疑問に遭遇したのは高校生のときでした。中学校までは生徒会長をしたりテニス部の部長をしたりマラソンの選手に選ばれたり、文武両道で学校やご近所ではいわゆる「良い子」で通っていました。人生はまさに自分の意志の力と努力でどのようにでも変えられると不遜にも思っていました。

 

しかし高校3年生のとき進路を考える段階になって「自分の人生やいのちをかけられるものとは何か?」を真剣に考えるようになりました。なぜそのようなことを考えたのかと言いますと、部活動に打ち込み充実した毎日ではありましたが、こころの中心部分にぽっかり空いた空しさがありどんな遊びや友人との付き合いによっても決して埋められない「ニヒルな」こころがあったからでした。楽しいことはたくさんあるのに喜びがない、そんな生活でした。

 

生きていく意味とか動機付けとでも言えるもの、この答えを出すためには人生の最も根源的な問いかけに答える必要を感じました。その問いとは、「自分はなぜここに存在しているのか?」ということです。

 

皆さんも大空や宇宙に目をはせることがたまにあると思います。月まで30万キロ、光の速度だと1秒で届いてしまう距離だそうです。太陽までは1億5千万キロ、それでも光速では8分で行ってしまう距離です。太陽系となると光の速度でも何十年もかかり、さらに銀河系となると直径数十万光年かかると言われています。ちっぽけなことで悩んでいる自分を悠久の宇宙から見ると「大河の一滴」にも過ぎないのに、自分はどうして「ここに」存在しているのか。そのことが不思議でした。

 

理性的に考えると、この答えの可能性としては2つしかないと思います。「偶然」によるか創造主の「意思」によるかのどちらかです。偶然とすれば進化論の立場です。人間の祖先は猿、更にたどればわけのわからない単純な微生物であり、何の意思にもよらず、偶然に発生して何億年という気の遠くなるようなスパンで徐々に進化してきたと主張します。進化論の立場に立つと、全ての存在は偶然の所産と言うことになります。高校時代の親しい友人で自称マルキストがいました。唯物主義者です。彼はあらゆる存在の根源はすべて物質だと言いました。私はどうしても彼の考えには賛同できませんでした。議論することは楽しかったのですが、もしすべての存在の根源が物質であるなら、物質的に豊かであることだけが幸福や成功の条件であり、たとえば障害を持って生まれてきたことや自分の力の及ばないところで不自由や貧困を余儀なくされていることはまったくもって「不運」の一言に尽きると思いました。また、すべての存在の理由が、進化論の言うように単なる偶然なら人生に意味を見出そうとすること自体意味がないことになると思いました。

 

「全ては偶然の所産」とか「全ての存在の根源は物質」という考えにどうしても納得できなかった私は、漠然とではありましたが、この秩序ある宇宙を造った創造者がきっといるに違いないと思いました。自分のアイデンティティの裏づけとなる哲学を求めて「神は死んだ」と唱えたニーチェの哲学を読んだりしました。しかしどこにも自分の存在理由や存在意義に対する満足いく答えを見出すことはできませんでした。部分的には納得できることが書いてあってもその人の最期が発狂して死んでしまったりしたのでは、やはり人生をかける理論として考えるわけにはいきません。

 

倉田百三の人道主義や「分け登る麓の道は多かれど同じ高嶺の月を見るかな」といった日本的宗教観もはじめは興味をひかれたこともありましたが、「宗教はみな方法が違うだけで究極的に目指していることはみな同じだ」という思想は、結局人間が後から自分の論理を正当化するために考え付いたことであってどの宗教も決して同じことを目指しているわけではないことが分かりました。

 

余談になりますが、日本には八百万の神がいるそうですが、世界で最も教育水準の高い日本人の宗教観は、ある文化人類学者によるとシャーマニズムやアニミズムを信奉している人種とまったく変わらないレベルだそうです。これは「創造主」という観念が無く、非常にちっぽけな神概念しかないせいだと思います。また、脱線ついでに私見を申しますが、日本の教育の大きな弱点の一つは、哲学や思想を教えない、あるいは教えたとしても知識としての哲学だけで、「哲学する」こと、すなわち最も根源的な人生の問いかけに対し議論したり、分かち合ったりする場がないことだと思います。若者の自殺者が多いという現実はこのことと無関係ではないと思います。就職や進路を決定するとき、あるいは生涯の伴侶を選ぶとき、大きな選択に迫られるものだと思います。私が最初にこの疑問に遭遇したのは高校生のときでした。中学校までは生徒会長をしたりテニス部の部長をしたりマラソンの選手に選ばれたり、文武両道で学校やご近所ではいわゆる「良い子」で通っていました。人生はまさに自分の意志の力と努力でどのようにでも変えられると不遜にも思っていました。

 

しかし高校3年生のとき進路を考える段階になって「自分の人生やいのちをかけられるものとは何か?」を真剣に考えるようになりました。なぜそのようなことを考えたのかと言いますと、部活動に打ち込み充実した毎日ではありましたが、こころの中心部分にぽっかり空いた空しさがありどんな遊びや友人との付き合いによっても決して埋められない「ニヒルな」こころがあったからでした。楽しいことはたくさんあるのに喜びがない、そんな生活でした。

 

生きていく意味とか動機付けとでも言えるもの、この答えを出すためには人生の最も根源的な問いかけに答える必要を感じました。その問いとは、「自分はなぜここに存在しているのか?」ということです。

 

皆さんも大空や宇宙に目をはせることがたまにあると思います。月まで30万キロ、光の速度だと1秒で届いてしまう距離だそうです。太陽までは1億5千万キロ、それでも光速では8分で行ってしまう距離です。太陽系となると光の速度でも何十年もかかり、さらに銀河系となると直径数十万光年かかると言われています。ちっぽけなことで悩んでいる自分を悠久の宇宙から見ると「大河の一滴」にも過ぎないのに、自分はどうして「ここに」存在しているのか。そのことが不思議でした。

 

理性的に考えると、この答えの可能性としては2つしかないと思います。「偶然」によるか創造主の「意思」によるかのどちらかです。偶然とすれば進化論の立場です。人間の祖先は猿、更にたどればわけのわからない単純な微生物であり、何の意思にもよらず、偶然に発生して何億年という気の遠くなるようなスパンで徐々に進化してきたと主張します。進化論の立場に立つと、全ての存在は偶然の所産と言うことになります。高校時代の親しい友人で自称マルキストがいました。唯物主義者です。彼はあらゆる存在の根源はすべて物質だと言いました。私はどうしても彼の考えには賛同できませんでした。議論することは楽しかったのですが、もしすべての存在の根源が物質であるなら、物質的に豊かであることだけが幸福や成功の条件であり、たとえば障害を持って生まれてきたことや自分の力の及ばないところで不自由や貧困を余儀なくされていることはまったくもって「不運」の一言に尽きると思いました。また、すべての存在の理由が、進化論の言うように単なる偶然なら人生に意味を見出そうとすること自体意味がないことになると思いました。

 

「全ては偶然の所産」とか「全ての存在の根源は物質」という考えにどうしても納得できなかった私は、漠然とではありましたが、この秩序ある宇宙を造った創造者がきっといるに違いないと思いました。自分のアイデンティティの裏づけとなる哲学を求めて「神は死んだ」と唱えたニーチェの哲学を読んだりしました。しかしどこにも自分の存在理由や存在意義に対する満足いく答えを見出すことはできませんでした。部分的には納得できることが書いてあってもその人の最期が発狂して死んでしまったりしたのでは、やはり人生をかける理論として考えるわけにはいきません。

 

倉田百三の人道主義や「分け登る麓の道は多かれど同じ高嶺の月を見るかな」といった日本的宗教観もはじめは興味をひかれたこともありましたが、「宗教はみな方法が違うだけで究極的に目指していることはみな同じだ」という思想は、結局人間が後から自分の論理を正当化するために考え付いたことであってどの宗教も決して同じことを目指しているわけではないことが分かりました。

 

余談になりますが、日本には八百万の神がいるそうですが、世界で最も教育水準の高い日本人の宗教観は、ある文化人類学者によるとシャーマニズムやアニミズムを信奉している人種とまったく変わらないレベルだそうです。これは「創造主」という観念が無く、非常にちっぽけな神概念しかないせいだと思います。また、脱線ついでに私見を申しますが、日本の教育の大きな弱点の一つは、哲学や思想を教えない、あるいは教えたとしても知識としての哲学だけで、「哲学する」こと、すなわち最も根源的な人生の問いかけに対し議論したり、分かち合ったりする場がないことだと思います。若者の自殺者が多いという現実はこのことと無関係ではないと思います。

信仰への契機

そんな折、高校3年生のクリスマスに高田馬場という町を歩いていると、キリスト教の集会案内のビラを受け取りました。なぜかその時私は「これは絶対に出なくては」と思い、遅刻しましたが、その集会に出席しました。なぜそのように思ったかと言いますと、当時私は「宗教に頼るのは弱い人間のすることだ」という偏見があったのですが、それでも「聖書を読まずしてキリスト教を批判するのは良くない」「聖書は客観的に見ても、世界中で最も影響を与えてきた書物であるから聖書を知らずにどんなに崇高な哲学や思想を学んでもそれだけでは片手落ち」と思ったからです。

 

教会で行われたクリスマスのその集会に出席して、私の人生観は大きく変わりました。決して「人生」そのものが変わったわけではありませんが、何に価値を置いて生きて行くべきかが、それまでの考え方から大きく変わりました。以前の価値観は結局のところすべて「目に見えるもの」に価値を置いていました。目に見えるものとは全て相対的なもの、他の人との比較や競争の中で絶えず移り行くものです。良い大学へ入っても、良い会社に就職しても、そこで必ず比較がなされ、優越感を持ったり、劣等感をもったりしてしまうものです。

 

ところが聖書から語られたメッセージは、「はじめに神が天と地を創造した」また、「目に見えるものは一時的であり、目に見えないものは永遠に続く」とあります。それまですべて自分を中心に発していた疑問が、「はじめに神…」と創造主である神を中心にしたものの考え方があることに新鮮な驚きと感銘を受けました。また同時に、創造主の目から見て偶然は何一つとしてないこと、私という存在が、偶然ここにいるのではなくて聖書によれば、創造主によって世界の基が置かれる前から選ばれており、髪の毛の数さえ数えられている存在であり、創造主が具体的に私という個人のために目的を持ってお造りになったことを聞きました。

 

このことは、それまで私が生きる拠り所にしていたちっぽけな哲学とかパラダイムを根底から覆すほど大きな出会いでした。

 

「あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えよ」と聖書に書いてありますが、創造主の存在を頭で理解するだけでなく腹の底から知り、その創造主の本性が愛であることを知ることは人生にコペルニクス的転換をもたらします。何を見ても感動しない、驚かないニヒルな人生から、大空の星を見ればそれを造られた創造主なる方を賛美できる人生へ、また、動物園で猿の前で「おまえは本当に私の祖先なのか」と問い掛ける人生から、「すべての人は神のかたちに創造された」と聖書が言うとおり、心から信じ、今日という一日を感謝することができる人生への転換であります。

 

この、価値観の転換は別の言葉で言うと、「Doing」から「Being」への転換と言い換えることができると思います。かつては、何をするか、何を得るか、将来どんな仕事について、どんな結果を出して、どんな地位につくかといった事柄が重要で価値を置いて生きていました。しかし、それ以上に大切なこと=「自分はどういう存在であるか」を聖書から明確に知ることができたからです。「自分はちっぽけな無力な存在」であることを認めること。それにもかかわらず、創造主なる神が「私を造り、私を選び、私を愛し、私にすばらしい計画を持っていてくれること」を知りました。

 

もし永遠についての定めが「何をしたかで評価される」としたら私には希望はありません。なぜなら、私は法律に触れるような犯罪は犯していないにしろ、もし、「Doing」で評価されるとしたら絶えず自分より劣った人を探していなければなりません。「この人よりはましだ」という比較の対象が必要になってきます。言い換えれば、自分より優れた人に対しては絶えず劣等感を持ちながら競争していかなくてはならないからです。

 

しかし、本当の存在価値は「何をしたか」にあるのではなく、神の前に「どうあるか」=Beingが重要だということを知りました。

 

人生は何を究極的に信じるかでその生き方や人生観はまったく変わってしまうものだと思います。問題は人生のゴールを何に設定するかと言うことだと思います。わたしはかつては、自分を頼りに、自分を信じて自分の道を切り開いて行くものと信じていました。しかし聖書を読み、ここに書かれていることをすべて信じるようになってから、人生のゴールは富や地位ではないと確信するようになりました。良く考えてみれば「自分」ほど頼りにならないものはないと思います。「どこから来てどこへ行くのか」すらわからない自分を頼るのではなく、絶対的に誤ることなく人生の指針を示してくれている「聖書」を糧として歩んでいく方がはるかに有意義な充実した人生を送ることができると思っています。

聖書の真実さ

それでは、なぜ聖書は命をかけても信じるに足る書物なのでしょうか。他の書物と異なることを今日は一点だけご紹介したいと思います。

 

聖書には預言がたくさん記されています。たとえば旧約聖書にイエス・キリストの生涯に関しては約350の預言が書かれているそうです。聖書を読めば誰でもこれらがことごとく成就していることがわかりますが、ある著名な先生によれば、仮に一つ一つの預言が的中する確率を2分の一と仮定すると、そのすべてがことごとく成就する確率は2の350乗分の一、少なく見積もっても、地球全体を仮に貯金箱と仮定して、その中にぎっしりと10円玉を詰めこんでたった一つの当たりコインを取り出すために無作為に1個だけ選び出して、それが偶然当たる確率以上だと言うことです。この聖書がイエスキリストの再臨=すなわち、世の終わりに再び来られることを預言している聖書の箇所は実に1500以上にも及ぶそうです。

 

私は「自分はなぜここに存在しているか」という問いに対する答えを聖書の中に見出したことを申し上げました。聖書が他のいかなる書とも異なって傑出した書物であるかはこれまで歴史上に及ぼしてきた影響力を見ても明らかです。クリスチャンにとっては当たり前ですが、キリスト教徒でない人々にも大きな影響を与えてきました。たとえばマハトマ・ガンジーは、「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は、新約聖書である」と述べていますし、進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンは地上の生涯を終える間際に、自分の唱えた進化論を「あれは若い者が考える未熟な論理です」と言って進化論が否定されることさえ潔しとして最後にキリストを信じて死んでいきました。

 

聖書の中心人物はいまさら申すまでもなくイエスキリストという方です。聖書の中にわたしたちひとり一人が答えを出すべき生涯で最も重要と思われる問いかけがあります。それはイエスが弟子たちに問われたことですが「あなたは私を誰だと言いますか?」という問いです。ペテロという弟子は「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えました。

 

イエスキリストは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。また、「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ誰一人神のもとへ行くことはできない」とも言われました。こんなことを言える人はほかに絶対いないと思います。「正しい道へ導く人」「真理を知っている人」「長寿の秘訣を知っている人」はいるでしょう。しかし、「私が道であり、真理であり、いのちなのです」と宣言し、かつ行動でその真実であることを示した人は古今東西イエスキリストのほかには絶対いないと思います。

 

私は不器用で、粗削りで未熟なものだと自覚しています。これと言ったとりえがあるわけではありません。このように人前で語れるようなものを持ち合わせているわけでもありません。しかし唯一自信を持って言えることは、私はすでに人生で最大の出会いを経験したということです。あと50年生きようがたとえ100年生きようがこれ以上の出会いはないと断言できる出会いです。それは聖書に出てくるイエスとの出会いです。いま、幸いなことに同じ思い、同じ価値観を持った妻と出会い、この喜びを共有できています。私たちの願いは、この喜びである信仰を子供たちに継承していくことです。この中にも同じような出会いを経験されている方々が大勢いらっしゃると思います。これは大変心強いことです。大変うれしいことです。是非皆様方もすばらしい出会いを経験されますように。今日皆様と出会えたことを心から感謝いたします。

 

どうもありがとうございました。