朴 世直
ソウルオリンピック大会組織委員長
2002年ワールドカップサッカー大会前組織委員長
2000年10月7日(土) 於:WinningWay2
-新たな千年、新たな出会い、新たな出発-
1. ワールドカップで新たな出会いを
皆様、こんにちは。この度、「Winning Way2」と呼ばれるすばらしい集会にお招きをいただいて光栄に存じます。お招きくださいました黒田先生をはじめ、持田先生、また皆様に深く感謝申し上げます。特に、私が韓国国会での朝餐祈祷会の会長を務めていた時、先程ご挨拶されました土肥隆一先生にお目にかかれたことは、私にとって、とても喜ばしいことでした。
私は、ご紹介いただきました、朴世直と申します。私の名前を紹介する度に、つくづく感じるのですが、韓国語と日本語は非常に似た所が多いのです。同じ漢字と文法を使うし、カタカナ、ひらがなに似たハングルも使い方が同じであって、特に発音はとても似た所が多いと思います。例えば、私の名前の「パク」は、日本語では「ボク」でありますが、「世」は世界の「世」、「直」は正直の「直」でありますから、これを日本式に訓読みすると、「ボクは世直し」ということになって、大変なことになります(笑)。自分の家を直す力もない者が、こんな大きな名前をいただいており、どうも申し訳ありません(笑)。けれども、皆さんと一緒に、この世を少しずつ直すと言うことは、とても大事なことだと思っていますので、ご協力とご声援をお願い致します。(拍手)
今日は、私の講演ということですが、日本語の使い方がまだ不十分であって、発音も不正確な所がたくさんあるので恐縮なのですが、時間を短縮するという主催者側の要望もあって、日本語を使うことになりました。この点も、宜しくお願い致します。(拍手)
さてこの度、シドニーオリンピックが終りました。「オリンピックの花」と言われるマラソンで、日本の女子選手が優勝し、金メダルをとりました。おめでとうございます。拍手はいかがですか。
(拍手)
次の2002年には、ワールドカップ世界大会が開かれますが、これは地理的にも近く、いろんな面で共通点を持っている韓国と日本が、東洋で初めてのワールドカップを共同で開催するという大変記念すべき大会となりました。
私は、この大会の特徴を、「新たな千年、新たな出会い、新たな出発」と名づけました。このスローガンは、ただのサッカー大会でなくて、もっと広い意味で考えることができると考えています。「新たな出会い」が含んでいる主な意味は、日本と韓国、また西洋と東洋の人と人との出会いであり、文化と文化の出会いであります。すべての文化は、その価値観が宗教の影響を多く受けてきたので、各国の宗教と文化の出会いと言っても、あまり違いはないと思います。そういうわけで、今日は、私自身が信じることになった宗教について、「日韓の虹の架け橋」と共に、「新たな千年、新たな出会い、新たな出発」というタイトルで、お話を進めていきたいと思います。
2. 解けない疑問
私は、朝鮮半島の東側にあたる慶尚北道の仁川という小さい農村で生まれまして、幼い時、そこで育ちました。私の住んでいた家が山の麓にあったので、度々葬式のために山に向かっている行列に出会うことがありました。その度に、私の幼い心の中に、一つの大きな疑問が生じてきました。「人間が死んだら、どうなるのか」、「霊というものが、果たして存在するのか」、「天国とか地獄とかいう来世が存在するのか」、「この宇宙は、どのように作られているのか」等といったことでした。
そんな疑問を解くために、儒教について書いてある本を読んだことがありました。その本には、“天”という字が多く出ていましたが、天がどのように作られて、どのようになっているかについての詳しい説明は、何一つ見つけることができませんでした。また、仏教をはじめ、他の宗教の方々に、来世のことについて聞いてみました。彼らの説明は、「この世の後には、必ず極楽と地獄がある。良いことをした人は極楽に、悪いことをした人は確実に地獄に行く」というものでした。さらに、「循環論」という理論があって、人は死んだ後、その業績によっていろいろな動物に生まれ変わる、ということも教えてくれました。 けれども、この世の始まりと終わりに対して、納得できる満足な答えをいただくことはできませんでした。こうした疑問を抱いたまま、私は、韓国の東南部に位置している釜山の士官学校に入学しました。
3. こうして確信を持った
ある日、オーストラリアの宣教師の所に、英語を学ぶために訪ねたのですが、これがきっかけで教会学校のバイブルクラスに出席することになり、キリスト教の教理を初めて学ぶことになりました。こうして、平素私が抱いていた宗教的な疑問に対する論理的な説明を、初めて聞くことができました。この世を創造された無限なる神様とイエス様と聖霊について、また、聖書が教える真理についての知識と確信を抱くことができました。そして、聖書の中のいろいろなすばらしいみことばを耳にして、大変感銘を受けました。
D・エリントンという方は、聖書について、このように語っています。「私は三つの教育を受けた。世間と学校と聖書だ。最終的には聖書がもっとも重要である。聖書は、我々が所有すべき本である」。また、ビクトル・ユーゴーは、「イギリスは、二つの書物を持っている。その一つは聖書であり、もう一つはシェ-クスピアである。イギリスがシェ-クスピアを作ったのだが、聖書はそのイギリスを作ったのである。また、聖書の中に、慰めを学んで、希望を持ち続けることができる」と書いています。
とにかく、聖書は世界で一番多く読まれている本ですし、世界的な文学書でもあり、歴史書でもあり、道徳書でもあり、哲学書でもあります。そして、この本は宗教的なことを除いても、是非とも読む価値があるすばらしい古典である、と私は信じているのです。
4. 死と生の別れ道に直面して
私がはじめて神様のみことばに従って、命が救われ、祝福され、また恩寵を体験したのは、いわゆる6・25事変と呼ばれる朝鮮戦争の時でした。まだ6年間の士官学校を終えていない17歳の時に、私は、この同族の戦争に学生兵として参加しました。勿論、北からの侵略に対抗して、共産主義から祖国の平和と自由を守るためでした。
1950年の秋、マッカーサーの仁川上陸作戦が成功した連合軍と韓国軍は、北朝鮮に向かって進軍を続けていました。その途中、戦争の形勢が逆転したせいだったのか、または、警戒心が緩んだせいだったのかわかりませんが、ある中隊の兵士たちが、朝早く非武装で駆け足をしているところに私は出会いました。道がとっても狭かったので、この中隊の後ろについて一緒に進んでいる時、突然周囲から一斉射撃を受けました。私は、瞬間的に、これは北朝鮮の敗残兵の奇襲だと気がつきましたが、時はすでに遅く、射撃は至る所から集中し、たちまち目の前の数十人の兵士たちが倒れていきました。
私は、本能的に身体を伏せて、傍の堀に隠れたまま周囲の様子をうかがいました。すると、すぐ近くの所に、一件の民家があるのが目に入ってきました。堀を盾にして、這いながらその家に近づき、どこかに身を隠す所はないかと探しました。後ろに回って出た庭の所に広い床があり、私は、その蓋が少し開けてあるのを見つけて、それを広げて床の下に潜り込みました。ちょうど潜水艦の中に入ったような格好になり、板の蓋を中から閉じて、私は息をひそめたのです。
しばらくして、2、3人の足音が聞こえました。これは、間違いなく、私の姿を見た北の敗残兵たちが、私を探しに来たのでした。その人達の足音が、私が潜んでいる場所まで、だんだんと近づいて来る感じがしました。その間の数十秒という時間ほど、私にとって、とても長く感じられた時はありませんでした。
死と生の別れの道に直面した私は、本能的に心の底から神様に叫び求めていました。聖書の中に書かれている、
「苦難の日には、私を呼び求めよ。私はあなたを助け出そう。あなたは私をあがめよう」(詩篇55:15)
というみことばが、瞬間的に浮かんできて、私は、心の中でこう祈りました。
「神様、私が今死ぬのはまだ早すぎませんか? あなたがここで私の命を救ってくださったら、一生あなたを崇め、あなたのために身を捧げます」。
これは、もう声にはならない、祈りというよりも絶叫でした。 こうして、今にも私が隠れている床の板の蓋を開けられるのではないかという恐怖の刹那、近くの場所で何発かの激しい銃撃音が聞こえました。その瞬間、私の近くまで来ていた兵士たちの足音は、どこかへ消え去って行ったのです。
このようにして、私の命は救われました。私は、この時以来、神様に捕えられた者となり、「あなたは私をあがめよう」というみことばのごとく、神様に忠実を尽くす者になりました。神様が私の命を救ってくださった、このように劇的で現実的な救いを、私はベトナム戦争の時にも経験致しました。
5. 万事が益となる
聖書に書いてあるみことばに深い感銘を受け、苦難の時、人生の慰めと力を得ることができるということは、大きな祝福だと思います。私も先にご紹介したように、「苦難の日には、私を呼び求めよ。私はあなたを助け出そう。あなたは私をあがめよう」というみことばによって、力を得ることができました。寂しい時、悲しい時、どうすることもできなくて苦しんでいる時、慰め、救い、助けを与えることができる絶対者なる神様が共にいてくださることを確信できることは、どんなに喜ばしくて力強いことでしょうか。
私が特に強く感銘を受けた聖書のみことばは、テサロニケ人への手紙第一の5章16節~19節とローマ人への手紙8章28節です。私にとって、これらのみことばは、人生において、とても貴重な励ましとなりました。
テサロニケ人への手紙には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16~18)と書かれています。また、ローマ人への手紙には、「神を愛する人々、すなわち、神の計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」(ローマ8:28)と書かれています。この2つのみことばを合わせると、非常にすばらしいメッセージになります。つまり、イエス・キリストは、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する、神に召された者たちに、万事が益となるように共に働いてくださるというのです。
クリスチャンだからといって、いつも平安で、幸せに満ちた一生をおくるとは限らないでしょう。しかし、たとえ不幸なことが起きたとしても、これに感謝し、絶えず祈り、いつも喜び、忠実に主を崇めているならば、必ず後で万事が益になるように主が共に働いてくださるのです。私自身、このことを深く信じており、また幾度もの体験を通じて、私自身の証になっています。
6. 聖霊は私に語られた
1945年の韓国の独立以来、様々な政治的状況の変化があり、個人が政治の犠牲になったことが度々ありました。私自身も、1979年10月26日、朴正熙大統領の急逝の後、混乱した韓国の社会を締め付けるために行なったと言われる、いわゆる一二一二事件で、その犠牲者となりました。即ち、権力を握った軍事政府の下で、保安部隊は、政権の実力者たちの不正を隠蔽するために、首都警備司令官であった私を、小さな理由を過大に誇張して、大統領の裁可を受けて、私を軍隊から強制的に退役させたのです。軍隊の任務に忠実であった私にとっては、正に青天の霹靂でした。 私のよく知っている弁護士は、公正な訴訟をして、法律的対処をとるように勧めてくれました。けれども、軍事政権の下で、裁判が公平になされると考える人はあまり多くいません。私は、「たとえ勝訴したとしても、この政権の下で、軍隊に残ってがんばる意味はない」と思いました。誰に訴えることもできない、絶望的な状況に直面した時、私は、テサロニケ人への手紙に書かれている、「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」というみことばを想起しました。
こんな絶望的な状況の中で、喜んだり、感謝したりするということはありえないことだと感じましたけれども、私は、一人で静かに、神様に、祈り続けました。絶対者であり、永遠なる方であり、この世の創造者である神様と対話することは難しいことだと感じましたが、祈り続けている間に、私は、私の中に宿っておられる聖霊とお話することができました。聖霊は、祈りの中で、このように言われました。「お前の学友であり、戦友であった多くの友達は、戦争の時、すでに国のために命を捧げたことを知っているのか。今日まで生きてこれたことを感謝しなさい。お前が神と共に歩んでいる限り、お前を見捨てることは決してしないであろう」。
この戒めを聞いた私は、「あなた様のおっしゃる通りです。私が今日まで生きてこれたことを、神様に感謝します」と答えました。その瞬間、私の身体の中に非常に大きなエネルギーが入ってくるのを感じました。その結果、私の心は、非常に大きな喜びで満ち溢れました。まるで空を飛ぶような気持ちでした。そして、私は、失意の中、このような大きな喜びを与えてくださった神様に心から感謝しました。
7. 守られた私
こんなことが起こった後、数ヶ月間、私は、家内と一緒に聖書を持って、30年間の公務のために親しむことができなかった全国の山と川、また有名な所を訪ね回りました。神様が私たちにこのような安息の日々をくださったことを感謝しました。それから数ヶ月が過ぎたある日、突然、大統領の執務室である青瓦台から連絡が来て、急に大統領と面談することになりました。そこで、大統領は、「あなたについての保安部隊司令部の報告は誇張だったことが、調査の結果明らかになりました。とんでもない、ひどい苦痛を与えて、本当に申し訳ありませんでした。けれども、私は、あなたの正直さ、忠実な人柄が、以前の通りで全く変わっていないことが証明されて、とても嬉しく思っています」と言って、私を慰めてくれました。
その後、私は、韓国電力会社の副社長をはじめに、米国のCIAの役割をしている韓国中央情報部の副部長、総務庁長官、第九部長官、ソウルオリンピック大会の組織委員長、中央情報部長、ソウル市市長等、いろいろな公職を勤めさせていただきました。「神を愛する人々、すなわち、神の計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」とのみことばが、正に実現することになったのです。
ソウル市長の時、また政府の誤ちがあり、国会議員と政府とソウル市を巻き込んだ大規模な政治的スキャンダルが起こりました。この問題は、私がソウル市長に赴任する前に起こったことでありましたが、政府は、ソウル市長の私を犠牲者にしてこの状況を収めようと、私に辞任を迫ってきました。私は、神様に祈って、翌日市長を辞任しました。その後、国会議員を含む多くの公務員が法律で裁かれました。法律的にも問題のなかった私は、勿論無事でした。その上、市長を早く辞任したお陰で、翌年、国会議員の選挙に出ることができ、当選して8年間、国家のためにいろいろ働くことができました。もしあのままソウル市長でいたら、国会で働く機会もありませんでした。これも、万事が益となるように、共に働いてくださった神様のお陰であり、早く市長を辞めるように環境を整えてくださった神様に、深く感謝しました。
8. ワールドカップ大会の成功に向けて
私が国会議員をしていた時でした。ソウルオリンピックが終ってちょうど10年にあたる1998年の春に、政府の要請があり、2002年韓日共同開催のワールドカップ大会の韓国側の組織委員長に選ばれました。そして、2年数ヶ月の間、両国の共同開催と親善友好のために、いろいろな面で働くことができて、大変やりがいがあったと思っていますが、この度、また国内の政治的問題が起こって、最後までこの職務を尽くすことができませんでした。個人的には非常に残念ですが、この間、ワールドカップ大会と両国のために、特に、日本と韓国の10の開催都市と県の首長たちとの合同会議を2回にわたってソウルと横浜で開催したことをはじめ、大会の成功に寄与する基礎を作ることができましたので、私がいなくても大会は必ず成功するものと信じています。これからも、皆様のご協力とお祈りを宜しくお願い致します。(拍手)
9. ある牧師の証を聞いて
我々人間にとっては、何よりも、人の目には見えない来世の問題が、いつも気にかかります。このことは、幼い頃から私の心が晴々としなかった理由の一つでしたが、この点について、ある生々しい証を聞いたことがあります。
1970年代後半、私が韓国の前方で師団長を務めていた時、ある牧師が私の師団の将兵たちの信仰と礼拝のために訪問され、証をされたことがありました。それは、その牧師自身がペニシリンのショックを受け、病院で4時間半も仮死状態の後に生き返ったという臨死体験についてでした。仮死状態の時、自分の霊が身体から出て行って、その霊が牧師自身の身体と周囲の人を眺めていたそうです。夫人と子供たちが、牧師が死んだと思って泣いているのを見て、話しかけてみましたが、誰も聞くことができません。また、その霊に、遠く離れているその牧師の故郷に行ってみたいという思いが来た時、すごく強い光が故郷の実家を照らして、牧師のご両親が2人で食卓を囲んでいる姿を目撃することができたのだそうです。後で確認した結果、同じ時間に、牧師のご両親が食事をしていたことがわかりました。その後、細長い道を通って、とても美しい光が輝いている所へ導かれましたが、その美しさは言葉ではとても表現することができない程のすばらしいものだったそうです。
この霊の世界については、最近韓国の権威ある雑誌が、その牧師と似たような臨死体験をした人の科学的なデータを元にして記事を載せました。特に、心臓病患者の中に、最近の蘇生術の進歩のお陰で、死んだような状態から生き返った人たちが多くいまして、その中の200名の蘇生者と面談した調査の結果、極端に違う二つの種類の証言があったというのです。
一つのグループは、先の牧師が経験したとおりに、美しい所に導かれたのですが、他のグループは、大変暗くてぞーっとするような恐ろしい所に到着して、そこで「まだここに来る時期ではない」と言われて、生き返ったという話です。生き返った人たちは、異口同音に、「どうしたら救われることができるのか」と願っていたということでした。
このような霊の世界についての生々しい体験談が、あなたの信仰をもっと確実なものにすることを信じます。聖書では、天国を「神の国」と言っています。不十分な死で、神様と交わることができない霊的な部分を残した人の霊は、死後肉体を抜け出ても、天国=神の国に入る資格はないことになります。ここに、イエス・キリストの十字架の死が必要になってくる理由があるのです。キリストは、唯一の捧げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全なものとされた、とヘブル人への手紙に書いてあります。この「捧げ物」とは、イエスの十字架上での死を指しています。「聖なる者」とは、そのイエスの血が私たちの不十分な部分を償うという教えを受け入れた者という意味です。つまり、イエスの十字架が人間(その人自身)の罪を償うものと信じると、その人には永遠の天国に入る資格が与えられるというのです。このイエスの十字架の死こそ、すべての問題を解決する究極の福音なのです。
10. 虹の掛け橋になる
結論を申し上げます。「死ぬ」ということは、これは他の人の問題ではありません。私どもみんなの問題である死について、また、目に見えなくても実存する霊の世界について、前もって準備していくことは、新しい千年を迎えて、この世の在り方を直そう(世直し)とする上で、非常に意義深いと考えます。特に新たな千年を迎え、新たな韓国と日本の関係を目指している両国の国民として、2002年ワールドカップサッカー大会前後に行なわれる文化と宗教の出会いを通じて、お互いの良い点を取り入れ、また、その共通点を探すことは、それぞれの国民、個人にとって有益であり、それこそ「日韓の虹の掛け橋を通す」ということにつながるのではないかと思います。新たな千年を迎え、新たな出会いを通じて、新たな出発をお願いする次第であります。
皆様、いかがですか? 共感されたら、拍手をお願い致します。(拍手)
今まで、私の信仰感について、証を含めてお話させていただきました。皆様のために少しでも参考になったとすれば、これほど嬉しいことはありません。大阪を中心とする関西地区は、韓国との歴史的、文化的縁がとても深く、大変由緒ある地方でもあり、私も大変期待しています。また、2008年には、オリンピックとパラリンピックの有力な候補地でもあります。皆様のお祈りとご協力によって、是非とも誘致が成功することを願っています。
皆様のご家庭と職場の上に神様の恵みがありますように。また、皆様の社会における様々な活動において、聖霊がいつも皆様を守ってくださるように心からお祈り致します。ご聴講を大変ありがとうございました。
以上